御酉様と羽子板市
御酉様
江戸伝統行事の一つ「酉の市」は、11月の酉の日に熊手を売る市が立つ。福をかき込む華やかな熊手を求めて境内は、賑わいう。霜月(11月)の酉の日は、順次に一の酉、二の酉、三の酉と称し、関東地区にある鷲神社の祭日で、「酉の市」がひらかれる。
もとは武運を守護する神として信仰され、武士の参詣が多かったが、後には開運の神として、特に客商売の人の信仰を集めた。酉の市の賑わいが吉原遊郭の大繁盛をもたらしたと言われる。

「おとりさま」とはこの鷲神社の愛称であり、その例祭は昔は酉待、酉祭といわれ、祭りの日を意味しておりましたが、葛西花又の大鳥神社の酉の市の如く、祭りに付随して市がたつ様になり、次第に賑わいを呈してからは、酉の市とか、また市自体も「おとりさま」と愛称をもっていわれる様になりました。

その賑わいは江戸中期より始まったらしく、東都歳時記(天保9年刊)に下谷田甫鷲大明神は天保3年(1832)よりおよそ60年余り前から賑わったと記されておりますので、江戸中期の宝暦、天保(1750〜1760)頃には相当有名だった様であります。俳人其角の句にも「浅草田甫、酉の市」として「春をまつことのはじめや酉の市」の句があります。

熊手について

鷲神社は昔から開運、商売繁盛の神として尊崇され、神社の熊手御守は「かっこめ」と呼ばれ、「かっこむ」、「とりこむ」などの縁起から江戸町民の人気をあつめ、それにつれ例祭当日、神社周辺には大小様々の縁起ものの熊手を商う業者が出店し、熊手も大きく美麗になって、現在200余店が出店しています。この神社の裏手には日本最大の歓楽境“吉原”があったので、吉原華やかなりし頃の「おとりさま」は正に東京随一の人手を見る大市でありました。

11月の第一番目の酉の日を一の酉、第二番目の酉の日を二の酉と呼び、年により三の酉まで市の立つ年がありました。江戸市民は「おとりさま」に詣でる事により、冬の訪れを感じ、冬支度を急ぐのでした。

また、市の日売られる八つ頭の芋は「頭になる」「子が殖える」などの縁起から、あわもち、切山椒なども夫々縁起をかつぎ、昔から販売され愛用されています。

羽子板市
羽子板市は12月17日から19日まで、相変わらず弁慶、助六、鏡獅子、女の子は道成寺、汐くみ、
藤娘といったものからその年の話題のスターも登場する。
暮れの17、18、19日、浅草観音様の境内に江戸時代のままの情景が展開します。
通りから一段高く床を張ったにわか座敷店。飾り立てた羽子板は舞台より、一段といい男振りの役者の顔、顔、顔。
仲見世から宝蔵門(仁王門)、観音堂まで境内いっぱいの人の波でこのときばかりは師走の寒さも和らぐようです。

昔は師走の東京の各所に羽子板市が立ち、女性たちはひいき役者の当り狂言の羽子板を求めたとのことです。

「市」とは、神社仏閣の縁の日、参詣人の集まる日に、近郷在住の人々が日常生活用品を商うために「市」が立ち、「歳の市」とはその歳の最後の市です。
江戸の歳の市は浅草が最も古く、万治元年(1659年)両国橋が架けられた頃と言われています。

毎年十二月半ばに浅草寺でおこなわれる「羽子板市」がはじまったのは万治二年(一六五九年)。
花鳥風月や殿上人、左義長(悪魔を払う正月の儀式)を描いた羽子板は、江戸時代後期、歌舞伎の興隆とともに、役者絵を押絵を用いて取りつけるようになり、現在にいたっています。

毎年、12月の17日、18日、19日の3日間、台東区の浅草寺 (観音様)の境内で羽子板市が開かれます。
この羽子板市の始まりは、今からおよそ300年以上も前、
江戸時代初期の万治年間(1658〜)ごろだと伝えれてい ます。

江戸時代中頃には、当為全盛を極めた歌舞伎の人気役者 の舞台姿を写した羽子板が市に並べられ、
人々は自分の 贔屓役者の羽子板を競って買い求め大変な人気でした。

現在も「羽子板市」の当日は、浅草の仲見せ通りは大変な人出です。
年の瀬の風物詩として、いつまでも大切にしたい日本人の心に残る行事のひとつです。